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うみべの女の子が実写化するそうだ。

当時のいにおブームに私ももれなく乗っかっていて、次から次へといにお作品を買い漁ったものだ。

うみべの女の子はいにお作品の中でも群を抜いて名作である。

いにお作品は若さゆえの性の過ちというテーマがどれも根底にはあるが、それがど真ん中ストレートにメインテーマになっている。

磯辺という苗字。何処か間抜けに感じてしまうのでなんでそんな名前にしたんだろう。でも忘れてないってことは成功なのだろうか。

当時の私は何歳だったのかな。大学1年生とか高校生3年生とかそんなだった気がする。

私は20歳まで童貞だったので、セックスの部分に共感することはなかったのだけれど、ある意味童貞だからこそ、体験してみたかった性春時代のモデルのひとつとして突き刺さったのかもしれない。

性的な描写を抜きにしても、恋愛の駆け引きの部分にとても共感する。私は磯辺であり小梅ちゃんだった。磯辺のように手に入らない人に脈ナシのアプローチをし続けけてきたし、いざ相手が振り向くとその頃には心が離れていたり、小梅ちゃんのように、自分が何をしてもこの人は自分が好きだろうと考えていた人が、気づいたら取り返しがつかないほど遠くにいたりした。

リアルタイムで読んでいた頃、あまりに私のことが書いてあるから驚いたものだけれど、それはつまり誰もがこんな似たようなどうしようもない恋愛をしてるってことだし、私は烏合の衆の1人だったのだ。

はっぴいえんどをCDを渡せずに捨てたり、「BUMPの藤原…」って台詞とか、浅野いにおはなんでこんなに若者にウケる話を思いつけるんだろうと脱帽する。ここからはっぴいえんどを聴き始めた人も星の数ほどいることだろう。

私は基本原作中なので実写化全般無理ってタイプなのだけど、何故かいにおの邦画化はありって思っちゃう。だって邦画に求めてることってまんまいにおに求めてることなんだもの。ソラニンを映画館でみた高校1年生の冬から私の邦画の世界は止まっている。

小梅ちゃんも磯辺も中学生から大人になったけど、私はどうだろう。プンプンの後期から変わっちゃった浅野いにおの作風はまた元に戻ってくれないかな。実写化楽しみです。

Sugar

Sugar

耳元で誰かがやるべき事を囁いてる
不規則な絵を見て 私の何が知りたいの?

Give me some Sugar 耳元で君が囁いてる
高層ビルから降り注ぐ謎の怪電波

誰もがゴミでもみるみたいに
私の全てを無視している
身体を撃ち抜く雨みたいなざらついた感覚
毒でも盛られているみたいに
思考はアイスみたいに溶けた
誰にも見つけて欲しくなくて
自ら闇の奥へ

歩いている死体 待ち合わせしてるみたい
狂っていく時代 私がやってるみたい
ポケットの中で飼う蜘蛛を撫でて
5歳の少女は誕生日に何を思うの?

美しい夢がみれたから
甘ったるい日々も正常に味わえてるんだ
君の言う通り生きてたら何にでも成れたけど
壊れちゃうほど焦ってないから

誰もがゴミでもみるみたいに
私の全てを無視している
電気が流れた夜みたいに澄んでる感覚
毒でも盛られているみたいに
思考はアイスみたいに溶けた
誰かに私を見て欲しくて
気づいたらベッドの上

四半世紀

四半世紀という言葉が好きだ。

100年という区切りの良さそうな尺度を4分割して25年という中途半端な年数を新たな尺度にしていることが好きだ。20年とかの方が区切りが良さそうなのに25年。不思議な数字。(これは私が無知なだけなのかもしれないが)四半という言葉がほかに使われてるのを見たことがない。お馴染みの検索エンジンで検索しても「四半期」くらいしか用法が出てこない。意味は4分の1。五半世紀とかじゃダメだったのかな。20歳を成人に設定してるわけだし、使い勝手が良さそうだけど。(日本以外の国の年数の区切りをよく知らないわけだけれども。そんなこと言ったら「世紀」という概念自体、日本以外にあるのかな)

とはいえ、25歳も精神的には良い区切りな気がする。20歳はお酒とか煙草とか、色々解禁!って気もするけれど、私は大学生だったので、少し背伸びしてお酒を嗜んでいたし、ハタチになってもさして生活に変化はなかった。いや、そんなこと言ったら手違いで25歳も大学生だったわけだけれども笑。一般の大学に通ってる人は25歳だと社会人2.3年目くらい? とかく大人を意識しだす時期なような気がする。結婚だとか将来設計だとか、貯蓄だとかふるさと納税だとか。

収入というものが生活に侵入してきて、20代前半の人と冷静に何歳差?とか考えると、うわぁ自分大人じゃん!と、いままでぼんやり捉えて許されていた「生活の輪郭」急にハッキリして、しかも今すぐキャッチしないと取りこぼして割れてしまいそうな気になる。人生はガラスで出来ている。

それと呼応するように時間の流れは加速している。今年は色々大変だったから〜と誤魔化してはみるが、もうとっくに1年が凄まじいスピードで過ぎ去っていくのを、肌で感じている。職業柄好き勝手なことが出来るのもあと2年かと思っていたけど、特に何をするわけでもなく1年が終わろうとしているのを私は正直焦っている。親が子供を育てるのに20年間くらいかかるのって途方もないと思っていたが、案外あっという間の出来事なのかもしれない。高校生の時付き合っていた女の子が「早くお婆ちゃんになりたい」と口癖のように言っていた。気が早いなぁと生返事をしていたが、今はその日はすぐさま来るかもしれないと伝えたい。しかもお婆ちゃんを感じれるのはほんの一瞬かもしれない。私は老いることが怖い。太ったことはないけれど太ってしまうことも怖いし、生え際が後退してるように感じるのも怖いし、記憶の定着が鈍るのも怖い。(ハゲてもハゲられるなとよつばのとうちゃんのセリフを先輩に言われても、最初はなんのことだったかわからなかった)

なにより、自身は確実に年をとってるのに、精神がそれに追いついていないのが怖いのだ。先人はみんなそうなんだろうか。

気づいたら四半世紀よりほんの少し長い間生きてしまっている。「四半世紀経って〜」みたいな安っぽい歌詞をいつか書きたいと22歳くらいの時に思っていたがいつの間にか通り過ぎてしまっていて改めて時の流れを感じる。

 


四半世紀という不思議な言葉のことに思い馳せていたら思いの外暗くなってしまった自分に嫌悪感を抱きながら。

みんな精一杯生きてね。

ガリーボーイとフラペチーノ

中学生くらいの精神年齢なので、なんの目的もないのに東京にいってみよ〜なんて電車に乗り込んだところ。新幹線に乗らなきゃいけない場所だったので一本で渋谷まで着いてしまうのは凄いことだ。1時間かかるから思ってたほど近くはないのだけれど。

この前、先輩と飲んでた時に「〇〇が今東京から帰ってるから二次会くるって」と言われ、え??もう22時ですけど今東京なら間に合わなくないですか??と、大真面目に聞いてしまった。田舎者は難儀だな。

現在の到着駅は北千住。埼玉県はどこにいても池袋が1番近いらしいと何の根拠もない情報しか持ってなかったので、越谷市は全然池袋に辿り着けなくてほんの少し落胆?に似た感覚を覚えている。

北千住めちゃめちゃ近いから、北千住でお酒飲めるようになりたいなとだいぶ前から思ってるけど一向に足を運ぶ気にならない。

そもそも誰かとの中間地点として選ばないかぎり、酔っぱらった後に電車に乗る必要のある地をわざわざ選択する気にならない。(人生つまらなそ〜)

 

話は昨日久しぶりにDVD借りてきて映画を観た。現在麻酔科を回ってるのだが、麻酔導入しちゃったらなんかない限り暇という性質上、オーベンの先生と雑談する機会が多い。この前当たった先生は歯科医だったが歯科麻酔に進んだらなし崩しに医療麻酔界に入ってずっとやってるが、医者よりは立ち位置が低い微妙な立ち位置になってるという興味そそられる経歴の女の人だった。趣味はあるかというありきたりな話題から、映画が好きだという旨をつたえたら低めのテンションではあったが乗ってきてくれた。かなりコアな趣味をしていらっしゃって、面白いと感じるポイントもそれを気にしたことはなかったというものばかりで、名作の話ひとつとってもかなり造作の深い話を聞けたのであった。面白くないと思ったことはハッキリとつまらないと言う人で、世論とかにまるで影響されない(評価の高いものをつまらないと言う自分カッコいい的な、寒い批判の仕方ではないのだ)自分が明確に持ってる人だなと少なからず感動した。

 

自分音楽好きですって話から、その人は「私はずっとHIPHOPだけなんだよね」って言ってて見た目から想像もつかなかったので笑ってしまった(のちに総合したらまぁ確かに好きそうだわと落ち着いたが)

 

インド映画にHIPHOPを題材にした作品があるとのことで「ガリーボーイ」という作品を教えてもらった。新しい環境くるといつも停滞していた自分の価値観が広がるのを感じる。こういう出会いは大切にしたいものだ。

 

前置きが長くなったが、つまりは昨日はガリーボーイを借りてきて観たのです。以下ネタバレ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本作は実在するインドのストリートラッパーのデビューするまでを元に製作されたもの。

インドのスラムで育ったムラドは先のわかりきったドン底生活を送っている。唯一の趣味はラップくらいで英語のアーティストの曲をいつでも諳んじられるほど聴き込んでいた。父親はすぐブチ切れる典型的な負け犬体質でしかも浮気相手を重婚として家に連れ込んでいるとかいう最悪の家庭環境で、大学もあまり行かず悪友と悪ふざけする毎日だったが、大学でシェールという男のHIPHOPライブをみた瞬間音楽に取り憑かれる。触発されて書いた歌詞をシェリーに使って欲しくて、シェールがジャムセッションをしてる廃墟に会いに行く。シェールは「なぜ俺がお前の言葉を?お前の叫びはお前が歌え(ニュアンスです)」と促し集まった仲間の前でムラドに即興で歌わせます。それからムラドのHIPHOP生活は幕を開けるという話。

HIPHOPはあんまり馴染みがないのでイマイチ盛り上がりにかけるなとは思ったけれど、やっぱり音楽を題材にした映画の素人が初めて人に認められる場面は最高だなと思う。音楽は勿論音が大事なのだが、それを構成する要素を視覚情報が大きく担ってるのは確かだなと思う。人がライブが好きである由縁。

こういう映画は一度大失敗して恥をかくという展開が中盤にありそうなものだが、ムラドは着々と登っていって意外だったが、見終わって調べたら実話だったので納得した。本当に天才だったのだな。

実話と知ってから思い返す不思議だった点にも色々なるほどと思う。まず、登場する全ての親が毒親なのだ。これにはびっくりした。1人くらいまともな理解者いないの???ってくらいヤバいやつしか出てこない。インドってそういうものなのだろうか。中国が舞台でもこういうのよく観るけど、もうちょっと大らかそうなイメージだけどなあなんて。しかし実話であるなら映画的なご都合主義は一切なくても不思議ではない。

スラムとはそういうところであるようだ。作品のテーマとしても「金がないということは全ての選択肢を狭め、人間の希望を奪う」と言ったような金銭のコンプレックスや階級的な考えが根本にどっしりと置かれていた。最後の父親との真向衝突の場面、もっと言ってやれよと思ったけど。まぁ日本よりは親への尊敬という価値観が根付いているのかもしれない。

もう一つはずっと付き合っている彼女がいるのだけれど、コイツがマジでお天馬で凄い。主人公にラインを送った大学の同期の女をわざわざ殴りに行ったりと、主人公が途中で出会う音楽プロデューサーのスカイとちょっと浮気したらスカイをビール瓶でぶっ叩いて捕まると兎に角破天荒で面白い。なのに普段は医学生で親には許嫁と結婚する男なんて知らないいい子だと振る舞っている(流石に無理あるだろ)

浮気されたのは可哀想だけどそもそもブチ切れたら男じゃなくてその女にキレるのが意味わかんないし、そこまで強いならもう他に切り替えれば良くない?とも思う。

まあ、ヤバい女だが、とにかく、顔が可愛い。あー顔がいいというのは本当に正義だな。視聴者も完全になんだこの女って嫌いになりかけていた終盤で主人公に久しぶりにコンタクトをするシーンで、電話がかかってきたらそれはもう可愛い顔で喜ぶものなので、これまでの全てが帳消しなってしまったに違いない。まあスカイも可愛いし、家がめちゃめちゃオシャレなのでスカイでもよくね??と思ったこともあったけれど。9年付き合っていたのは伊達ではなく、やっぱり恋愛というものにおいて1番力を持つのは情というものなのかもしれないと思ったのであった。

やな点ばっかあげてしまったけど、青春サクセスもので1番大切なのはやっぱ男同士の友情なのである。自分は既に地元の有名人なのにも関わらず、素人であるムラドをなんの裏もなく評価し、HIPHOPの世界に引き込んでくれるところは文句なしにいい男と思ったし、こんな奴と出会っていたら人生が大きく違っていたかもしれないと感じる人も多いのではないだろうか。それほど魅力的な人物だ。幼馴染の悪友もなかなかいい奴で面白い。やってることは最低だけど。ムラドを最高に導いたのはこうした仲間たちなんだなと。

まあ色々書きましたがとてもいい映画でした。皆さんも是非。

 

とっくに渋谷にはついていて、スクランブルスクエアのスタバで瀬尾まいこを一冊買って飲み物を注文しようとしてるところ。何故休みにわざわざ渋谷まで来てスタバにいるのかは私にもわからない。とりあえず一旦座りたくなったからだと言っておく。このあとなにしようかな。少なくとも小説読んでる場合ではないだろうな。それではまた。

新宿は豪雨

新宿に呼び出されて昔のバンドメンバーと会いにいくところ。

何度も何度も通る道で古びた喫茶店をみつけた。このご時世で開いていなかったから気づかなかったのかと思ったけど、入り口には大きな看板を兼ねた日除けがついていて只々私が気づいてなかっただけのようだ。自己評価よりも大分自分は視界が狭いし、世界は思ったよりも広い。

引越し初日まさにこんなお店を探して周辺を徘徊したのに、なんでみつけられないかなぁ。今度行ってみよう。大通りにあるだけあって全然空いてるとかではないけど。

新潟にいた時はなんでやってるのか不思議なくらい静かな喫茶店を探すのが好きだった。細い路地に面した階段を上がるとたどり着くジャズ喫茶店で、レアチーズケーキとほんの少しブランデーの入った珈琲を注文していた。

突然だけど、人には出来るだけ隠してるつもりでバレバレらしいけど私は飽き性です。正確に言えばちょっと前から流行ってる多動というやつだと思う。(ADHDと言ってもよいかも) 同じ場所でジッとしてることが苦手だ。喫茶店なんて小説とか持ち込んで読んだりすれば少しはマシだけど(まあそもそも小説も余程ハマる作品じゃなければ読むこと自体に飽きるが)とてもじゃないが30分くらいが関の山かと。これも直したい癖ではあるのだけど飲み物を手にすると飲み切るまで飲み続けてしまうっていう悪癖もあるので、すぐにやることはなくなる。(これ同意してくれる人いないかな。蓋のできる飲み物やお菓子とかも蓋をして残りは後でってすることができない) 

話を戻すと、実は映画のエンドロールもめちゃめちゃポップなエンディングじゃないかぎりわりと観ないで外に出てしまいたいと思ってたりする。映画好きとか言ってるわりにはそういうところが少し恥ずかしい。勿論エンドロール後に隠し要素とかありそうな時とかは違うよ?昔付き合ってた人が、Twitterで「エンドロールを最後まで見ずに帰ろうと言われて別れようと決めた」みたいな1コマ漫画をファボってて、まぁ普通は「なし」だよねと考えたこともあったなぁ。でも終始盛り上がらない壮大なオーケストラの音楽でスタッフロールだけ3分流れるのが好きな人って正直いるの?(ごめんなさい。映画好きとか二度と言いません。)

ある人は言う「エンドロールで最後までその映画の世界観に浸っていたい」と。嗚呼、価値観の違いで終わりのない殴り合いをするのはやめよう。

多動とかADHDとかカッコつけたけど、単に飽き性なだけだな。やっぱり。温泉行きたいけど長風呂できないし。寧ろなんども出たり入ったりしたい。体力に自信はないけどあちこち動き回っていたい。

動き回っていたいと言えば、職業柄人の訴えに黙って耳を済ませねばならないことがよくある。ほんとは共感した悲しい顔でビシッと聞かねばならないのだろうが、私は微動だにせず突っ立ってるのが苦手なので常にウロウロしたりモゾモゾしてしまう。学生の時は注意されたが今は上司に病気だぞと少しからかわれるくらいになった。立場とは凄いな。

 

新宿につきました。1時間くらい電車にのった。

想像してた都会の移動時間よりは遠いけど、田舎出身なので1時間で都市につけるのはやっぱり近いような気がする。お肉が美味しい店を予約してるらしい。

行き当たりばったり

昨日の夜、23時に夕飯でも食べよって表に出たらなんだかなんだかそんなに暑くなかったので、あぁ1番好きな季節はやっと来たと思ったらいつもあっという間に終わってしまうななんて悲しくなったのです。先月までは連休とは縁遠い部署に配属されてたので、お休みを寝て終わってしまっても今だけだからと言い聞かせていたのですが、土日休み固定の今、寝っ転がったまま時間を消費するのはもは全て己の罪で責任転嫁のしようもないなと考えた次第です。

既に出発が午後になった時点でちょっとした敗北を噛みしめてるのですが、外に出ただけでかなり及第点(圧倒的60点)。

私の最寄りの駅からはスカイツリーラインってのが走っててそれがわりとの頻度で急行で運行してるのですが、ろくに調べもしないし、目の前に来た電車に乗っていいのかどうか慌てふためいてしまう田舎者なのでもう心を無にして飛び乗ったら(それはもう電車に乗るなんて余裕ですって顔で)まぁ各駅停車だったのです。普段は泊らない駅に泊まるのも新鮮な気もするし、そこまで生き急いでるわけでもないのでどうでもいいけど。そんなこと言ってたら知り合いの住む街に泊まったので(普段は通過する)偶然会えたりしないかなと辺りを見渡したり、駅から見える風景を見つめて、生活を想像したりしていたので、浮き彫りになった浅はかな子供っぽさが顔面に絵画のように展示されてるのを人に批評されないよう、手のひらのちっぽけな液晶に再び没頭したのでした。

 

特にたくさんの駅を往来(alrightと似てる)したわけではないのですが、北千住は好きな駅です。街に降りたことがあるわけでもないけど…。主要な都市に行くために山手線に乗りたいわけだけど、私の住む街からは北千住までしか切符を買えないので、精算が必要になるわけなのです。北千住は駅員さんが精算してくれるのですが、これがなんだか好きなんです。「どこまで行きますか?」ってテンション低めに聞かれるのだけど、北千住で降りる人はここを通過して次の街行きの列車に乗ることの方が多いからこういうシステムになったんだと思うとなんだ可哀想な愛おしいような気がしません?北千住。

今度はそのまま降りてみよう。なんとなくちょっと渋いイメージがあるけど北千住に明るい人いますか?

 

前置きが長くなったけど今日は池袋のサンシャインシティの水族館に来たのでした。行ってみたいとずっと思っていたのに、誘う人がいない!と謎の理由で時が過ぎていたのですが、よく考えたら今までも水族館はいつも独りで来ていたのでした。今度は東武動物公園も独りでいっちゃお。近場のデートスポットらしき場所を独りで虱潰しにしちゃいそうで笑えてくるけど、いつ発生するかわからない都合のいいイベントを待ってたらそのまま老人になってしまいそうだなんて。

やっぱり周りをみてても社会人になってからやたらみんなアクティブになる気がする。お金があるから?私はこのとおり、多分コロナじゃなくても独りで大学生と変わらない生活を送りそう。それじゃやっぱりマズいし、使うアテのない貯金が貯まってても、若い時に使わないとね。今度は服でも買ってみようか。スニーカーも意味わかんないとこに穴空いてるから買わないと。

誰かに指針をしてほしい。あなたは次はこれをすればいいよってな風に。義務すらままならないから私。既に一回ガス止まったし。10万円の申請もまだしてない。今月までだったな、出来るかな。

部屋の掃除は全く取りかかれない。人が来る予定が定期的にあるのなら少しは努力できただろうか、今のアパートになってから人を入れる予定がとんとないのでずっと地獄みたいな空間で横になってる。そしたらこの前落とし物を届けに友達が酔っ払って寝た私の家の鍵が空いてるもんだから、家の中まで持ってきてくれて顔から火が出るほど恥ずかしかった笑。やっぱ部屋は綺麗じゃなきゃ生きてる資格ないな。

 

いつまで経っても水族館の話にならないけど、実はゲートまでついたら入場制限のためオンライン予約者しか入れないシステムになってたんですよね。馬鹿だよね。18時の回しかとれなかったので抹茶ラテ飲みながら時間を潰してるとこです。抹茶ラテは見た目が綺麗だけどあんま甘くないタイプだし、ふわって混ぜて飲んでたら底に沈んでた抹茶が最後凄い苦くなっちゃって笑っちゃった。丁寧な暮らしがしたいのだけれど、本質的にはせっかちなのでちょっとずつHP削られてるような、美味しいような。

 

サンシャインシティって水族館の横にプラネタリウムが併設されてることを初めて知った。そんな2大サブカル施設が近くにあったら核分裂で大爆発するか、カルチャーの過剰摂取で浸り過ぎて水面まで上がって来れなくなっちゃうんじゃない?って思うけれど、そもそも水族館とかプラネタリウムってカルチャーか???なんて、ひまな時間を持て余すと単純な真理にたどり着いたらする。やっぱりサブカルという概念の詰めの甘さにニヤけたり呆れたり。考察としてサブカルチャーの中に散りばめられた漫画や映画の主人公たちは大体水族館とかプラネタリウムとかが好きなので、自身の1番すきな作品に場所を投影できるという点では広義の意味でサブカルチャー?と言ってもよいかな。関係ないけどカルチャーって単語かっこいいよね。これは共感してもしなくてもよいです。

プラネタリウムも梯子できるの?って期待したけど待ち時間の丁度いい上映はなくて、そんな上手く行かないのも人生だよね。また今度こよう。そういえば水族館年パスが買いたいなって思ってたけど今の時期は支払い制度がムズイから年パス買えないみたい。残念。これから何回来るのかわかんないけど何度か来ようかななんて、もう一生来ないかもなんて。まだ入ってないからわかんないけど笑笑

文字打つのつかれたから中身のことは後で書きますね。続く。

空の色

すでに終わりを迎えた街が終わってしまわないように人々は画面を眺めている。

たった今起こっている現象を、私を含めたくさんの人が認識できないでいる。ある時、ふと、「もしやこれが、待ち望んだ”世界の終わり”というやつなのではないか?」と思ったりもする。だがしかし、そんな大それたことを口走ったら最後、見当違いだった時に恥をかくのが怖いと委縮したり、そんな思考になる自分を恥じたりもする。

一昨日言葉を覚えたばかりの盲目が、他人の言葉足らずを責める。

私の中の空っぽは、気づけば元のカタチもわからない肥で渦巻いている。そのままなら、なんだって詰め込めたのに。

私たちにはいつだって時間がない。大人になったらしてみたかったことは、いつの間にかもっと若ければしてみたかったことに。どこが分岐点で、どこで選択していたのかもわからない。たった一年ばかし時を止められたのなら、簡単に取り返しがつかなくなって、毎晩ベッドの中で思う、「嗚呼、朽ち果てるまであと50年?」消化試合にしてはあまりにも地獄。

世のため人のためと刷り込まれ来たのに、自分のことしか考えられない。理想通りに生きるにはあまりに余裕がない。ちっぽけな自分ですらそう思うのに、その他大勢が気付かないはずがない。

実をいうと、引き籠ることは、私に対して何の影響もない。他人にとっては一大事であることを知ると、少しざまあみろと窓から呟いてみたり、ほんとのところ、自分はやはり、人付き合いが希薄だと、必要のない落胆を味わったりもする。

会わなくなったら、呆気なく、顔も思い出せない。それとは真逆に過去は美化されてたりもする。とち狂って近況を訪ねようものなら素っ気ない返事。タイミングの悪さかと思い上がったり、視界から消滅したのだと面倒な拡大解釈で忙しい。どちらにしても、尊大さの所業だと気づくと一日は終わる。

どれだけ閉じ込められようと、上手いこと人は生きる。なかなかに、しぶとい。

世界の終わりだなんて期待しても、結局、案外、何とかなることをどこかわかっている。前よりも少しだけ辛くはなるだろうが。

沢山のことを繰り返し思考している。自分の話をただ聞くだけの人たちが押し寄せた演説台の上で、今日の献立から、SNSのくだらない論争の本質から、この世界の真理まで高々と主張をする準備はばっちりだ。

大きな声で歌いたい。それを誉められたい。いまここで、と求められたい。次はいつかと尋ねられたい。

私がまだ私であることを教えてくれる人に会いたい。